昭和48年08月19日 特別奉修委員
昨日中村さんが、お届けをされますのに、先日ももう本当にもう、涙の出るごと腹の立つことがあったと。もう本当にどうしてこげな若い者から、こげなこつ言われなんだろうか、だから、こうやって言い訳しようかと、こう腹の立ちますのを思うた途端にね、もう耳が、がんがん言うごと痛くなった。もうはぁ神様本当に今こがしこ、一生懸命の修行させてもらいよるとに、今こんな所で、この位な事で腹を立てて、もうほんにこの人が、神様じゃったと思うたらもう、その次の瞬間には良くなっとったち言う。
もう神様が今中村さんの上にもう、生き生きと働いておられると言う事を感ずるですね。今あの、富永さんがお届けをされますのに、昨日そのお手洗いであそこにすぐ、自動車が通るのが聞こえますから、ぎゅっというそのなんかこう追い越しでもしておるような自動車の音を聞いた瞬間にですね。ははぁもう母もあんな風で、ほんにどうして、あそこへこう、あれが出来なかったじゃろうか、どうしてと思うた途端にね、その中村さんが感じなさったような、もうそれこそ耳ががんがん言うように痛くなったち。
はぁもうほんに、どうしててんなんてんてことは絶対ない。もうこら絶対神様の御神愛の中に起きておる事、神様のおかげの中に起きておる事を、どうしてなんてん、もう決して思うちゃならんと思った途端にもうおかげ頂いた。神様はね身体の上にもこの様に、生き生きとして働いてくださる。かと思うと、神様がその末梢神経に至るまでというか、・・・。今日野口つぁんのお父さんがお届けしておられましたが、昨日はその事故の事で、警察にお出でられた。色々調べがあったと言う。
それで実は私のほうの家内は、こうして金光様へ熱心に信心してお参りさせて頂きよりましたち言うたげなら、その調べをされる巡査さんがですね、私の母もあの六本松教会で、毎日、お参りをさせて頂いて、私はまぁ月次祭だけぐらいじゃあるですけれどもね。あの、お参りさせて頂きよる、もう本当に信心させて頂いてよるけん。まぁどういうこういう時でも、本当におかげ頂きますねと言う話を聞いて。もう家内がそこに働いておるという事を実感したと言うて。
今日今あのさっきお届けが、お父さんからありましたんですけどね。もうこれはほんなら、野口つぁんだけの事ではない、中村さんだけの事じゃない。いつも絶えず、御霊様の働き、神様の働き、お互いの身に、びりびりするごとあっておるんです。それを自分の心が、我情我欲でいっぱいであったりですね。あの信心でない様な事を思うたり、考えたりしよるから、働きがあっとるけれども、それを身体で受けこなす事も出来なければ、そういう神様が、もの言うて下さっておらんばかりに。
色んな事を思って、知らせて下さっておっても、それをお知らせと頂く事が出来ん。それを頂く途端にですね。今日あの最後に私が、今日の御理解の言い忘れたと言う所を聞いて頂いた様にね。本当に信心は見やすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰るが、本当に、信心と言うものは、決して難しいものじゃないと、ね。本当にどうぞタバコを召し上がる人にどうぞ、灰皿のある所で呑んで下さいよと言うだけのこと。
それを守るだけのことだと。それを信心させて貰う者は、タバコを呑んじゃ出来んぞと言う様な、難しい事じゃないて。寝たいときには休ませて頂く。ちゃっと神様にお願いをして休んだらいいのだ。ほら信心しよら、昼寝も出来んと言う様な事は、絶対ないて。それを、例えば内緒ごとのごとしてするけんで、いわばそのタバコの火が火事の元になるようにね、だから、信心ちゃ難しいものじゃないと言う事を。
まぁ今日は聞いて頂いて、あの綾部さんやら中村さんの、ほんならこれを少し本気になっとらんと難しい。けども本気になったら、みやすいと言う事を聞いて頂いたですね。そして私が、忘れておったと言う事があのこれですよね。あれは諺にありますように、「なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するが真の堪忍だ」と、こう言うけれどもね。信心させていただくものは、こういう事があって良かろう筈はなかて、ね。
もうほんなら人が言うなら、血の涙の出るぐらいの時、こらこれだけは許されないと言った様な事ほど、素晴らしい神様の働きのあっておる時だから、それこそしれっと笑うてから受けられる事。むしろお礼を申し上げる様な事。例えば中村さんが、昨日通られた所がそれなんですね。それと一時はです、どうしてこげな若い者から、こげな事を言われなんだろうかと思うた次の瞬間にです。神様がその耳にお知らせを下さった時ですたい、ね。次の瞬間に思うてござる事は。
この人が神様じゃったと、こう言う様な頂き方。そうなんです実際。だからならぬ堪忍をするが真の堪忍てんなんてんち言う事はないて。ならぬ堪忍と言う信心の無い者、信心の薄い者がです、ね。言うのであってこれが信心の薄い者は、それこそ堪忍が出来んと言うて、その辛抱もしません。もうがんがん言うてしまう。これじゃもう、愈々ゼロですね。ただ本当に信心しとるけん、ぐうぐ言うて辛抱せんならんと言うのは、これは信心が見やすいものにまだなってないこと。
信心がまだ難しい所になってる、ね。私は信心はみやすいものじゃと仰るのは、本当に、そう言う様な時にです。有難い。例えばほんなら、今野口つぁんのはなし、皆さんの話を聞いて頂いてそういうもう、それこそびりびりするような、私共の日常生活の上に、信心させて頂いておる者の上に、これはもう合楽でご神縁を頂いておる者の上には、そういう働きがあっておるのであるから、それを受け止めれる信心がね。今日頂いた、ね。十年と信心が続いたら、われながらわが心を祀れと言う様な心なんです。
だからそこを目指す事です。難しい事じゃない。見やすう信心は出来る事、ね。そこん所を私共が実際の所の、言うならば呑んじゃ出来ん所で、タバコを呑む様な事をするから、難しゅうなってくる。ね。なる堪忍は誰もする。ならぬ堪忍するが真の堪忍。それを例えば、信心させて頂く者はもうなる堪忍も、ならん堪忍もないと言う事。一切が神愛として、お礼を申し上げる事ばっかりだと言う事、ね。今日はそこん所を一つ特に一つ分かって頂きたいですね。
どうぞ。